Get to know Crime Novel Under Rain

ミステリについて書き散らすブログ

水で割るか、ソーダで割るか|ヒラリー・ウォー『事件当夜は雨』(1961年)

「職人的作家」と聞いて誰を想像するだろうか。ミステリ界で言えば400冊近い作品を残した笹沢左保は間違いなく「職人」であっただろうし、デビューから50年以上の間ハイペースで休むことなく書き続けた西村京太郎も「職人」の鑑のような作家である。海外だと寡作ながら玄人好みの作品を生み出したP. D. ジェイムズや常に一定以上の質の作品を出し続けたエド・マクベインあたりが「職人」のイメージに近いか。

 

個人的にそんな「職人」感が最も強いと思っている作家の一人がヒラリー・ウォーである。戦後間もない1947年にデビューして以来50作ほどのミステリを遺した警察小説の巨匠であるが、何よりも「職人」らしさを感じさせるのはその質実剛健な作風である。例えば1回しか出番のない登場人物でもしっかり名前が分かるように書かれており、また本当の事件捜査でも実際に交わされるであろう会話や手続きが克明に描かれるなど、フィクションと言わせない重厚感のある作風は、軽く読めるスリラーとは一線を画している。その代表作とされ最近創元推理文庫からも復刊された『事件当夜は雨』は、そんなウォーの特徴がよく現れたミステリである。

本作は冒頭の序文で、ある架空の犯罪実話集に記録された事件についての説明がなされ、いずれも動機や犯人は全く異なるが「戸口(玄関)で待ち受けていた死」であること、そしてこれから語られる事件もそんな「玄関での死」にまつわる事件であると予告される。そして本編では土砂降りの雨の夜、都会から引っ越してきて農園を営む夫婦を訪れた謎の男が「おまえには50ドルの貸しがある」と言い主人を撃ち殺してしまうという事件が発生し、地元の警察署長フェローズとその相棒であるウィルクス部長刑事の捜査が幕をあける。特に被害者を殺す動機を持っていそうな人物が見当たらない中、フェローズたちは少しでも可能性のありそうな人物を片っ端から捜査していくのだが、全く手がかりも動機も分からないままひたすら登場人物の数が増えていく。そして最後に意外なところからヒントが現れ、見事犯人を検挙するのだが・・・と言うお話。

 

ここまで読まれて察しが良い方はすでに気づかれたかも知れないが、本作の印象は一言で言えば絶望的に地味である。普通の作家であれば本筋に影響を与えない描写や登場人物は適宜刈り込んでいくだろうが、ウォーはそんなことはしない。フェローズたちが捜査において会話した人物は全て律儀に名前が書かれ、彼が目にした全ての事物は(事件への関係性の有無に関係なく)全てが克明に描写されていくのである。これは今のミステリを読み慣れた人間にはなかなかしんどい。特に眠い時には一瞬で夢の国行きである。

 

では読むに値しない作品かというと、全くそんなことはない。と言うのも、ある程度ミステリを読み慣れてきた読者には全く異なる楽しみ方ができるからである。それは「ストレートで飲むとイマイチだけどソーダで割れば美味しくなるんじゃないか」みたいなことを想像しながら読むという方法である。

 

かつてヒッチコックは映画についてこんな言葉を残している。

 

 

ヒッチコックのひそみに倣えば、ウォーにとってのミステリとは「退屈な部分も含めて全て忠実・克明に描いた人生である」のだろう。したがって「ストレートで飲む=単に筋を追う」だけの読み方をすればほとんどが人生の「退屈な部分」になる訳で地味に感じるのも当然である。そんな平凡で退屈な人生=ミステリを自分の感性で割って飲み、そして味わうのがウォーのミステリなのである。

 

例えばラストの犯人を検挙した後もサスペンスを持続させるストーリーテリングは、無骨ではあるが非常にうまい。これをもっとキャッチーな書き方にすると東野圭吾っぽくなるのだろう。また途中で当時の最先端ガジェットのテープレコーダーを使って実験をするシーンなんかはもっと派手に描けばジェフリー・ディーヴァーリンカーン・ライムになる。こんな感じで「無骨な味わいだけど、ソーダで割ればもっと美味しく飲みやすくなるよね」というポイントを見つけ出しながら、自分なりの割り方を想像して味わっていくのである。これがミステリオタクだ。ミステリオタク万歳である。

 

現代の洗練されたミステリと比べてしまうと分が悪いのは事実。とはいえ「惜しい作家」で忘れ去られるにはあまりにも惜しい。そんな作家である。