Get to know Crime Novel Under Rain

ミステリについて書き散らすブログ

フィクションとノンフィクションの二刀流|月村了衛『香港警察東京分室』(2023年)

ミステリ好きというのは基本的にフィクションとしての犯罪を楽しむ人が多いようで、いわゆる犯罪実話のようなものは人気がないらしい。例外的に「切り裂きジャック」ネタについては小説・映画を問わず擦り切れそうなレベルで「こすられている」が、それ以外だとあんまり思いつかない。日本では三億円事件とかグリコ・森永事件くらいだろうか。ちなみにそういった犯罪実話が好きな方には、NHKスペシャルの「未解決事件」シリーズがおすすめである。

 

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筆者はそういったネタが大好きなクチである。一つの事件の背景にある様々な人間臭い思惑や犯人を追う警察の執念など、追うものであれ追われるものであれ「人間」としての極めて根源的な部分がこれ以上ないほどにフォーカスされるところは、ノンフィクションならではの強みであろう。

 

とはいえミステリ好きに犯罪実話が刺さらないのは致し方ないとも思う。現実の事件ではカッコいい名探偵もいなければ目を見張るような密室トリックも出てこないし、犯人の動機も嫌になるくらい現実的で生々しかったりする。そんな物語を気分転換に読もうと思う人間はあまりいないだろう。仕方のないことだ。

 

そういったフィクションとノンフィクションの異なる魅力をどちらも兼ね備えた作品があれば、エンタメとしてこれ以上はない面白い読み物になるはずである。そして、実際にそういう作品を世に送り出し続けているのが月村了衛という作家である。例えば、先日出版された新シリーズの第1作『香港警察東京分室』は、まさに「フィクションの面白さ」と「ノンフィクションの迫力」を兼ね備えた無敵の傑作である。

 

 

本作はパラレルワールドの東京を舞台に、架空の警察組織「警視庁組織犯罪対策部国際犯罪対策課」(通称“分室“)の面々が活躍する警察小説である。この組織は、日本の警察と香港の警察が精鋭警官5名ずつを派遣して結成された国際捜査機関で、なぜか東京は神保町にオフィスが置かれているらしい(古本とカレーの街にそんな物騒な組織があると考えるだけでも笑えるが)。その分室のメンバーたちは香港で民主化デモを扇動して日本に亡命している元大学教授キャサリン・ユーの行方を追っていく中で、香港の犯罪組織の襲撃を受ける。なんとかキャサリンの身柄を確保し、浦安総合病院(順天堂大学病院のことかね)に搬送し体調回復を待つが、キャサリンは病院から姿を消してしまう。分室の面々はキャサリンの足取りを再び追う中で、襲撃者たちの意外な正体に気付くが、やがて分室が設置された真の目的と中国政府の思惑が浮かび上がるのだった…

 

本作もこれまでの月村作品同様に、ページから飛び出さんばかりの激しいアクションシーンが次々と繰り出されるアップテンポな警察小説である。また豊田商事事件をモデルにした『欺す衆生のように、現実の世界の出来事とシンクロさせているところも面白い。キャサリンの関わった民主化デモや犯罪組織など、作中に登場する事件や組織、人物たちのモデルが何かを考えながら読むのも楽しめる。

 

中でも本作の読みどころとなっているのが、登場する分室メンバーの描き分けである。警察小説では一つの警察署を舞台に多数のキャラクターが登場するような作品も多いが、どうしても主人公プラスその取り巻き以外のキャラクターまではしっかりと書き込まれておらず、今一つイメージが伝わってこない作品も多い。それに対して月村作品がすごいのは、10名の分室メンバーをたった315ページの小説の中でしっかりと描き分けているのである。これはとんでもない技量というべきであろう。月村了衛がノンフィクションを書いたらめちゃくちゃ面白い読み物になるのではないかと思う。「フィクションとノンフィクションの二刀流作家」というのもカッコ良さそうだし。

 

フィクションでしか描けない激しいアクションに、ノンフィクション顔負けの描き込まれた登場人物が織りなす群像劇。これで面白くないわけがない。元ネタとなっている隣国の動向と合わせて、今後の行方が気になるシリーズである。

 

 

 

だからスワンソンを読んだ|ピーター・スワンソン『だからダスティンは死んだ』(2019年)

昔の創元推理文庫にはジャンルを示すマークがあった。本格ミステリは通称「おじさんマーク」、ハードボイルドや警察小説は拳銃マーク、そしてサスペンス・スリラーはなぜか猫マークで・・・というような話は、おじさんミステリファンが集まるとよく出るネタである。かくいう筆者もそのクチであるが、ジャンル横断的な作品が増えるにつれてマークをつけるのが難しくなったために店頭に並んでいる創元推理文庫からは消えてしまった。残念なことである。

そんなジャンルマークのうちの「猫マーク」をつけるべき現代ミステリ作家として真っ先に名前を挙げたいのがピーター・スワンソンである。すでに創元推理文庫では『そしてミランダを殺す』『ケイトが恐れるすべて』『アリスが語らないことは』の3作が邦訳されており、このミスなどでも上位にランクインするなど世評も高い。筆者は過去3作をいずれも読んでいるが、どれも一筋縄ではいかない捻った作品ばかりである。中でも『アリスが語らないことは』はここ数年のイヤミスの中でも指折りの傑作である。イヤミスがお好きという方(あんまりいないかもしれないが)は今すぐにポチることをおすすめする。

さて、本日ご紹介する最新作『だからダスティンは死んだ』も期待通りの変化球である。主人公の女性版画家ヘンリエッタは、夫ととももに越してきた街で隣人のドラモア夫妻と知り合い、隣人付き合いを始める。ある日、ドラモア夫妻の自宅に招かれたヘンリエッタは、フェンシングのトロフィーが飾られていることに気づく。これはかつてヘンリエッタがひょんなことから関心を持ちニュースをチェックしていたとある殺人事件において、犯人が持ち去ったとみなされていたものであり、しばらく様子を伺っていたヘンリエッタはドラモア夫妻の夫マシューがその犯人ではないかと疑い始める。そしてマシューの正体を明かすべく調査を続けるヘンリエッタの前に、そして読者の前に全く想定していない意外な事実が明らかにされる・・・

 

 

本作もこれまでの作品同様に本格ミステリのお作法に則って書かれたものではない。そのため犯人や作者との知恵比べといったことは不可能である。そして上記の「意外な事実」というのも、ぼんやりとは示唆されているものの必ずしもフェアに書かれているわけではない。などと書くとイマイチな凡作のように見えるが、おそらく作者の狙いはそこではない。

一般的にミステリという読み物は下記のような「起承転結」に沿ってお話が進んでいくことが多い。

 

「起:事件の発生・謎の提示」→「承:更なる事件の発生」→「転:探偵が真相解明のきっかけを掴む」→「結:真相の解明、犯人の特定」

 

黄金時代の本格ミステリでは「起」や「結」がある程度フォーマット化され、それがその後も本格ミステリのお作法となって受け継がれてきた。一方で、一部の作家は「承」においてもオリジナリティを追求し、アンドリュー・ガーヴや連城三紀彦などは「どこに連れて行かれるのか分からない」ような作品を多数残してきた。

 

この見方に沿って言えば、スワンソンは「承」に加えて「結」でもオリジナリティを出そうとしている作家なのではないだろうか。ネタバレになるのではっきりとは書けないが、前作の『アリスが語らないことは』においても衝撃的で忘れ難いラストが印象的だし、本作においてもラスト10ページくらいの展開は誰にも予測不可能だろう。探偵が犯人を捕まえてめでたしめでたし。そんなミステリは意地でも書かないという拘りすら感じてしまうのである。

 

すれっからしのマニアからミステリ初心者まで、とにかくびっくりしたい人におすすめできるミステリ界きってのファンタジスタというべき作家だろう。そんな評価が正しいのかどうかを知るためにも残りの未訳作品の紹介を俟ちたい。

 

特殊設定はシンプルかつパワフルに|須藤古都離『ゴリラ裁判の日』(2023年)

音楽のストリーミング再生が普及した昨今では「ジャケ買い」という言葉はもはや死語なのかもしれない。音楽とは基本的にCDで聴くものであった世代(筆者もその一人である)にとっては、アルバムのジャケットというのは、そのアーティストの曲を聴くかどうか、食指が動くかどうかに大いに影響を与えうるものであった。この感覚、ストリーミング全盛時代を生きるZ世代には分からないかもしれない(別にZ世代をディスりたいわけではないので悪しからず)。

 

一方で、本好きにとっては「ジャケ買い」の感覚は今でもありふれた感覚ではないか。そしてタイトルのインパクトもあれば尚更である。最近出会った第64回メフィスト賞受賞作の須藤古都離『ゴリラ裁判の日』も思わず「ジャケ買い」してしまった一冊である。

 

 

本作はニシローランドゴリラのメスであるローズが主人公の本格リーガルミステリである。ローズはゴリラでありながら特別な才能を持ち、手話を使って人間と会話をする能力を持っていた。その後、あるスタートアップ企業から提供されたグローブ型のデバイスによって手話に合わせて人間の「声」を出すことができるようになり、ローズは普通の人間同様に会話し、コミュニケーションをとることができるようになる。

やがてローズはひょんなことからアメリカ本土の動物園に移送され、他のゴリラたち(もちろん言葉を話すことができない”普通の”ゴリラである)と交わって暮らすようになる。そして動物園ゴリラグループのボスと「結婚」し、順風満帆な暮らしが続くかと思われたある日、夫ゴリラくんが動物園を訪れていた子どもを引き摺り回しているところを見つかり、「人命救助のため」という理由で射殺されてしまう。悲しみにくれるローズであるが、腕利きの弁護士との出会いなどを通じて人間と「裁判」で戦うという選択肢を選ぶことを決意し法廷に立ち向かうが、相手も名うての弁護士を差し向けてきた!果たして裁判の行方は?ローズたちに勝算はあるのか?というお話。

 

上記のあらすじの通り、一見するとトンデモ系のようなタイトルであるが、中身は極めて真っ当なリーガルミステリである。もちろん「言葉を理解するゴリラ」という設定そのものはかなりぶっ飛んだものではあるが、前半部分でゴリラたちの生態をゴリラ目線でかなり丹念に描いている(しかも有名な京大の山極壽一先生が監修されているとのこと。説得力がすごい)ため、ローズが言葉を話す設定がそれなりに飲み込めるようになっているのだ。加えて、後半の裁判の部分も「ゴリラ」という主人公およびその夫の”特殊な属性”における「人権とは何か」という思考実験になっているため、荒唐無稽な話とはならずに純粋なリーガルミステリとして楽しめる。この辺りは作者のセンスみたいなものかもしれない。

本作を読んで、昨今の「特殊設定ミステリ」について何となく感じていたモヤモヤ感の正体がわかったような気がした。何事もいじりすぎ、やりすぎは良くないのである。特殊設定はシンプルかつパワフルに。次回作も期待の新人である。

 

ミステリの正しいおちょくり方|倉知淳『大雑把かつあやふやな怪盗の予告状』(2023年)

本格ミステリというのは色々と「お約束」のあるジャンルである。ミステリをそれなりに読み進めている人であれば黄金時代を代表する作家ロナルド・A・ノックスが掲げた「ノックスの十戒なるものが存在することをご存知だろう。その十戒の内容は以下の通り。

  1. 犯人は、物語の当初に登場していなければならない。ただしその心の動きが読者に読みとれている人物であってはならない。

  2. 探偵方法に、超自然能力を用いてはならない。

  3. 犯行現場に、秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない。

  4. 未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない。

  5. 主要人物として「中国人」を登場させてはならない。

  6. 探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない。

  7. 変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない。

  8. 探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない。

  9. ワトスン役は、自分の判断を全て読者に知らせねばならない。また、その知能は、一般読者よりもごくわずかに低くなければならない。

  10. 双子・一人二役は、予め読者に知らされなければならない。

イギリス国教会大司教にまで上り詰めたエリート聖職者でもあったノックスはあくまでもジョークとしてこんなものを作ったらしい。なのでミステリオタクとしてはニヤニヤしながら見ていればよいのだが、こんなジョークができるほど当時から「お約束」についての共通認識みたいなものがあったのだろう。

世の中そんな「お約束」があればそれをおちょくる人もいるわけで、アントニイ・バークリーなんかの作品は「お約束」をおちょくった延長線上で作品を作ってしまっているような感じさえある。バークリーがおちょくり系ミステリ作家の英国代表だとすれば、日本代表に推したいのが倉知淳である。独特の緩い作風の中に読者の予想の斜め上をいく「!」を仕込むことにかけては天才的としか言いようがない作家である。『星降り山荘の殺人』は、ミステリを読み慣れているという自負がある人ほど背負い投げをくらってしまうという恐ろしい作品である(おすすめ)。そしてその倉知淳の新作が大雑把かつあやふやな怪盗の予告状』である(タイトルからし倉知淳っぽさが溢れてますな)。

 

 

本作は警察庁の「特殊例外事案専従捜査課」(通称「探偵課」)という架空の組織を舞台にした連作短編集(短編というよりは中編に近いか)である。「探偵課」は密室殺人や見立て殺人のような、いかにもミステリに出てきそうなシチュエーションで発生した難事件に名探偵を配備すべく作られた組織で、癖のありすぎる名探偵たちと、そのお目付け役として任命された新人、木島壮介が3つのベタな事件に取り組む。収録作品は下記の通り。

  • 「古典的にして中途半端な密室」→密室にて頭を撃たれて死んでいた実業家を巡る事件。しかし、単なる密室ではなく爪楊枝やテグスといったトリックの仕掛けまでそのまま残されてしまっていたのはなぜなのかという謎が提示される。犯人は単なるマヌケだったのか。それとも・・・。
  • 「大雑把かつあやふやな回答の予告状」→田舎の富豪の元に、ブルーサファイアを盗むという自称怪盗からの予告状が舞い込む。しかし、どういうわけか予告状には3つも候補日が書かれていた。単なる愉快犯による悪戯なのか。本物の予告状であるとしたら、なぜ候補日が3つもあるのか。最後に真犯人の意外な狙いが明かされる。本短編集のベスト。
  • 「手間暇かかった判りやすい見立て殺人」→「父のお殿様に膝下を切られて生贄として龍神に捧げられてしまったお姫様」の伝説が残る富士山の辺りにある別荘地で、膝下だけを湖のほとりに残して殺された男の死体が発見される。伝説を地で行くような見立て殺人かと思われたが、その裏には意外な理由が隠されていたことが明らかにされる。

どの作品も「針と糸の密室」や「怪盗の予告状」、「見立て殺人」といった古典的なミステリのギミックを使いながらも悉く読者の予測の裏をかいており、まさにおちょくり系ミステリ作家日本代表に恥じない出来栄えである。特に素晴らしいのは、単なるおちょくりではなくいずれの事件でもそのようなことが起こる必然性があることである。例えば東野圭吾名探偵の掟』という名作がある。この作品もミステリにありがちなお約束を徹底的におちょくった短編集であるが、倉知淳の作品に比べるとどちらかといえばおちょくることが目的化しているきらいがあり、テイストもややブラックな味わいとなっている。一方で本作はしっかりと必然性を担保することで、単なるおちょくりではなく謎解きの純粋な面白さに直結しているという点で上回っているのではないだろうか。また登場する名探偵たちの香ばしいキャラクターも読みどころである。某芸人ではないが「クセがすごい」名探偵のオンパレードで、お目付け役の木島も振り回されっぱなしとなる。具体的にどう「クセがすごい」のかはあえて書かないが、中でも怪盗の到来を待ち構える殺伐とした空気の中で「定時で帰るのは公務員の権利」といって名探偵が帰宅してしまい、残された木島が気まずさの余りあたふたするシーンなどは思わず吹き出してしまった。

本作のラストを見る限りでは倉知淳はまだまだシリーズを書き続けるつもりのようである。読者としては作者の商売っ気をおちょくることなく真摯に受け止めたいところである。ということで続編に期待。

 

ダイヤモンドと〈木曜殺人クラブ〉は永遠に|リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ 二度死んだ男』(2022年)

気付けばもう4月も月末となってしまった。2023年も3分の1が過ぎたと思うと時間の経つのは早いものであるが、単にそう感じるほどに歳をとってしまったというだけなのかもしれない。「0歳〜20歳までと20歳〜80歳までに体感する時間は等しい」というジャネーの法則というものがあるくらいだから、誰にとっても人生なんてあっという間なのだろう(実際に体感時間ベースではどれくらいを消化しているのかを計算してくれるサイトもあるらしい(下記リンク先参照))。

人間の体感時間を考慮した人生経過率 - 高精度計算サイト

 

ところで体感時間を伸ばすためには常に新しいことや刺激を受けることがいいらしい。その点では昨年のこのミスでも好評だったリチャード・オスマン『木曜殺人クラブ』に登場する素人探偵のおじいちゃん、おばあちゃんたちは理想的なライフスタイルを送っているのかもしれない。その『木曜殺人クラブ』の続編が『木曜殺人クラブ 二度死んだ男』である。

 


本作は前作でも大活躍した〈木曜殺人クラブ〉の面々が活躍するシリーズ第2作である。〈木曜殺人クラブ〉とは、65歳以上向け高級リタイアメントビレッジであるクーパーズ・チェイスに入居する(かなりアクティブな)老人たちが素人探偵活動を行うグループであり、本作でもお馴染みのメンバーたちが登場する。ある日〈木曜殺人クラブ〉の発起人であり元スパイでもあった破天荒おばあちゃんエリザベスの元に、かつて死んだはずの男からの手紙が届く。その男はエリザベスたちの住むクーパーズ・チェイスにやってきたというのだが、訳あってマフィアからダイヤモンドをかっぱらったためにマフィアから命を狙われているのだという。気になってエリザベスはその男に会いに行くと、その正体は意外な人物であった。そして〈木曜殺人クラブ〉の面々は成り行き上やむを得ず、というか嬉々として首を突っ込むのだが、とうとうマフィアの手によって被害者が出てしまい、事件は予想もしない展開を見せるのだった・・・というお話。

 

どちらかといえば本格ミステリ要素が強かった前作と比べると、本作は「007」のようなスパイ小説チックなストーリーであり、前作以上に展開にスピード感があり読みやすい作品に仕上がっている。個人的には本作の方がキャラクターも活きているように感じる。エリザベスとジョイス、ロン、イブラヒムのイツメンたち(大●博子さん、イブラムじゃなくてイブラムなので覚えてあげてください涙)の掛け合いは言うに及ばず、フェアヘイブン警察署の主任警部クリスと、その恋人の娘でありかつフェアヘイブン署の部下でもあるドナとのブラックな掛け合いはもはや夫婦漫才みたいなノリで、作者が楽しんで書いているのが伝わってくる。

 

ミステリの世界においておじいちゃんやおばあちゃんが活躍するストーリーといえば、本書の帯にあるミス・マープルをはじめ、隅の老人などの名探偵たちの名前が思い浮かぶ。またおじいちゃんと少年を主人公にして戦争下での逃避行を描いたネビル・シュート『パイド・パイパー』のような名作の名も挙がるだろう。最近では創元推理文庫で人気を博している高齢者ハードボイルドシリーズの「バック・シャッツシリーズ」や、還暦を過ぎたマフィアの殺し屋オルソが活躍するマルコ・マルターニ『老いた殺し屋の祈り』のしみじみとした味わいも忘れられない。このように「アクティブおじいちゃん・おばあちゃん」ミステリは脈々と書き継がれてきた一大ジャンルと言える。

また素人探偵たちが集まってみんなで難事件の捜査に乗り出す話といえば、英国ミステリ作家の大先輩アントニイ・バークリーの『毒入りチョコレート事件』のような先例がある。日本の新本格作家なども含めると枚挙にいとまがないし、(漫画ではあるが)江戸川コナンくんシリーズの爆発的な人気は言うまでもない。こちらもやはりミステリにおける一大ジャンルであろう。

このように本作(というかシリーズ)は昔から読み継がれてきたミステリ界における鉄板のフォーマット「アクティブおじいちゃん・おばあちゃん」×「素人探偵団」を組み合わせたストーリーとなっている。要は「この組み合わせで面白くないはずがない」という鉄板のミステリとも言える。もちろん作者のセンスがあるからこそ成り立つやり方であるのは言うまでもない。

マーケティングの世界では「マーケットイン」という考え方がある。これは「売れるもの=マーケットがあるものは何かを特定した上で、そこから逆算してものづくりをする」という考え方である。これとは逆に「とにかくいいモノを作って、頑張って売る」というスタンスは「プロダクトアウト」という。どちらもマーケティングの世界では定石として捉えられているものだが、「木曜殺人クラブ」シリーズの2作品を読む限りではリチャード・オスマンは明確に「マーケットイン」の作家と言えるのではなかろうか。

オスマンはすでに次のシリーズを書いているらしいのだが、本格ミステリ、スパイ小説と来て、果たして次作は何を見せてくれるのだろうか。個人的には「アレ」をやりそうな気がしているのだが。次作も楽しみなシリーズである。

 

 

 

ビコーズ・イッツ・ゼアー|岩井圭也『完全なる白銀』(2023年)

エベレスト登頂に3度チャレンジしたイギリスの登山家ジョージ・マロリーが、なぜエベレスト登頂を目指すのかと聞かれ「そこにエベレストがあるから(Because it's there.)」という名言を残したことは有名であるが、確かにワタクシのような凡人にとってエベレストのような高山に命をかけて挑むという行為はなかなか想像もつかないことである。もしかするとマロリーに質問したインタビュアーも同じように感じていたのかもしれない。マロリーはエベレスト登頂に挑戦する中で消息を断ち、75年後の1999年に山頂付近で遺体が発見されているが、実際にエベレスト登頂を果たしたのかはどうかはいまだに謎に包まれているという。

 

そんなマロリーを彷彿とさせるカリスマ登山家が登場する山岳ミステリが岩井圭也『完全なる白銀』である。

 

本書の主人公のカメラマン、藤谷緑里(みどり)は、学生時代に訪れたアラスカの北極圏にほど近い村サウニケで親交を深めていたイヌピアット・エスキモーの登山家リタが消息を絶ったデナリ(英語名マッキンリー)登頂にリタの幼馴染シーラとともに挑むため、再び冬のアラスカに舞い戻る。リタは「冬の女王」などと称賛を集めるカリスマ登山家として成功を収めていたが、その成功の影ではリタの「登頂」に対して「実際には登頂していないのではないか」とする批判記事や、その他リタにまつわる幾つかの疑惑を巡る報道もあり、緑里はリタのことをやや信じきれずにいた。そんな緑里とは対照的にシーラはそれらの疑惑に対して憤慨しており、リタの遺志を継ぐためにも緑里とともにデナリ登頂を目指すのだが、リタに対する緑里のアンビバレントな感情に気づき二人の距離は離れてしまっていた。そんな状況で挑む二人の冬のデナリ登頂は果たして成功するのか。そしてリタを巡る疑惑の真相とは?冬のデナリで二人が目にしたものは?というお話。

 

冒頭で「ミステリ」と書いてしまったが、いわゆる殺人事件や犯罪が起こる物語ではない。念のため。ただし、そんなジャンルの是非がどうでも良くなるような、夢中になって読める作品であることは間違いない。

 

本作では「リタは実際にデナリ登頂を果たしたのか」という謎と「緑里とシーラは無事にデナリ登頂に成功するのか」という点が読者にとっての主な関心事となるわけだが、それに加えて「二人はなぜそこまでしてデナリに登らなければならないのか」という点が(実際には)大きな関心事となる。多くの冒険ミステリであれば「家族・国を守るため」といった大義名分が掲げられ読者に感動とカタルシスを与えてくれるわけだが、本作が素晴らしいのは、ありふれた日常の中で自分の人生と向き合い苦しみもがく主人公の姿がしっかりと描かれていることである。そういった過去のエピソードを通して彼女たち(特に緑里)がデナリへと立ち向かう理由が伝わってくるようになっており、単なる山登り小説とは一線を画している。

 

またそういった過去のエピソードを冗長に描きすぎず、現在(デナリへの登山)のシーンと過去をキレの良いカットバック手法で緊張感を持って繋いでいる点もお話作りのうまさを感じさせる。こういう構成力で勝負できるのは理系の才能だよなと思って作者の経歴を見てみたら北大大学院農学院とあった。なるほど。これはおみそれしました。

 

雄大大自然を背景に人間ドラマ溢れる冒険ミステリ、とくればデズモンド・バグリイを思い出した人も多いのではないだろうか。「日本のバグリイ」として今後も期待の正統派冒険小説作家である。

 

エモいミステリ|グレッチェン・マクニール『孤島の十人』(2012年)

ヤングアダルト小説」と呼ばれるジャンルがある。よく略して「YA」と書かれたりするが、「ヤングアダルト」とは一言で言えば「子供と大人の間の世代」を指し、小説のジャンルとしては大体12から18歳くらいを対象としているとされる。昨年の「このミス2023年版」ではホリー・ジャクソン『優等生は殺人に向かない』(5位)やシヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(7位)といったヤングアダルト系ミステリが上位に食い込み、一躍注目を浴びた年でもあった。

 

もちろんそんな極東のミステリマニアの反応に乗っかろうとしている訳ではないだろうが、ヤングアダルト向けにライトなミステリを書き続けているのがレッチェン・マクニールという作家である。そしてマクニールにとっての2作目であり、本邦初紹介となるのが『孤島の十人』である。

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本作のあらすじはこんな感じ。陽キャの高校生たちが休暇を過ごすために、クラスの1軍女子のボス的存在であるジェシカの家族の別荘に滞在するために孤島に集まるのだが、島に着くや否や嵐に見舞われてしまう。そして何気なく再生したDVDには、何者かが恨みを募らせているメッセージをしたためた動画が入っており「復讐はわたしのもの」と宣告されていた。ここまで一向に姿を見せないジェシカも気になりつつ一向は夜を迎えるが、とうとう殺人が発生する。ここから謎の殺人鬼は次々と高校生たちに襲い掛かり、まさにあの古典的名作をなぞるかのように事件が続くが・・・

 

という感じでまさにクリスティを本歌取りしたようなプロットではある。実際に帯にも「そして誰もがいなくなる」とあり、カバー裏にも「『そして誰もいなくなった』の世界に挑んだサスペンスフルなミステリー」などと書いてあれば、もうそれだけで本格ミステリの鬼が小踊りしてしまう人も多いのではないか。しかしながら、本作にクリスティに真っ向からチャレンジした快作!というものを期待すると期待外れに終わるだろう。というのも本作の本質はあくまでも「ドキドキが止まらない怖い話」だからである。学校一のイケメンとのときめきも、イケメンを巡る女友達との鞘当ても、孤島で迫り来る殺人鬼も、全て「ドキドキ」である。作者は読者に対してひたすらドキドキするシーンを畳み掛けるような、そんな小説を書きたかったのかもしれない。

 

恐らくミステリファンの読者の多くは、ヒロインを中心とする陽キャたちの恋バナや三角関係のくだり、そしてそういったロマンス(しかも痴話喧嘩みたいなレベル)にうんざりする人も多いだろう(筆者もその一人だが)。一方で上記の通り作者が書きたかったのはむしろそういったラブコメ的な方にも見える。まぁ他の作品を読んでみないとなんとも言えないが。

 

とはいえ別に本作を腐すつもりはない。むしろミステリオタクとして興味深かったのは、こういうティーンの陽キャたちの恋バナラブコメと伝統的本格ミステリの舞台装置は意外と好相性なのではないかということである。

心理学で「吊り橋効果」なんていうものがあるが、言ってみれば本作は究極の「吊り橋効果」が発揮されているとも言える(殺人鬼が迫り来る危険性は吊り橋の比ではないだろう)。そんなスリルを受けつつヒロインは生き延びることができるのか?そして憧れのイケメンと結ばれるのか?!というお話なのである。実際に読んでいて自分が殺人鬼が迫り来るサスペンスに対してドキドキしているのか、ヒロインと親友と親友が想いをよせるイケメンの三角関係にスリルを感じてドキドキしているのか、途中からよく分からなくなったのも事実である。

 

カバーの紹介によれば作者グレッチェン・マクニールは元々オペラ歌手志望だったらしい。オペラとは登場人物の感情を歌声で表現する芸術だそうだが、本作もまさにオペラを歌い上げるような感覚で筆を進めたようにも見える。なるほど、作者はエモーショナル本格ミステリを描きたかったのだな。納得。